昨日は関西をすごい強い台風が襲いました。
感覚的には今まで経験した台風で一番風が激しかったと思います。
一夜明けて被害の様相が徐々に明らかになってきていますが
これ以上被害が広がらないことを祈るばかりです。
*********
モノを作り始めて10年強になってようやくと言っていいのか、
最近モノを作るということの考え方が変わってきました。
最初は何も考えずに、革を切り、布を切り、縫い合わせるということに
没頭していました。
その次に自分の思うモノを生み出すべく切磋琢磨してきました。
そして去年くらいから、魂は細部に宿る、ということを何度か経験して
そこから意識が随分とシフトしました。
最近、モノを作った結果、というよりも人に会うことによって気付かされたこととして、
モノは空間と意識の中に存在する、ということがあります。
インテリアデザイナーさんや彫刻家さん、またそれらのプロデューサーさんなどと
話す機会がそれぞれあったのですが、
そう言った方々の空間へのアプローチの意識が非常に素晴らしく、
それらはきっと
複数の要素(テクスチャーや色、デザインやサイズなど)の組み合わせ+時間という概念
の元に成り立っているのではなかろうか、と仮定することにしました。
私の作ったものは必ず空間の中に存在します。
つまり決して単一要素ではないということです。
持つ人やその人の行動する先、そして他のモノとの関係性が時間軸にそって存在するということは、
それらを見据えてモノを作るということが必要になってくるのではないだろうか。
また、あるアパレルオーナーさんは言います。
「自分で決めることができる人が少なくなってきている」と。
それはモノの価値しかりですが、明確な基準が存在しない以上
本来は決定は自分自身でしかできません。
しかしたくさんの情報にアクセスできる昨今は、
「誰かの、どこかの」がベースになっているのではなかろうか、と思うのです。
私ができることは作るものに魂を込めることと、
それを誰に託すか、ということだけです。
全ての人に当て嵌まるものなど作ることは不可能です。
ならば然るべきものを作って
然るべき人に然るべき時に持ってもらうということが
作り手としてはもっとも意味あることではないでしょうか。
そうなると、既存の枠組み(このベースという媒体も含めて)では
目指すべきところが違うのではないか、と思うようになりました。
自分の周りの空間は自分でしかプロデュースできません。
私の作品を買っていただく皆様にはぜひそういう人間であってほしいと願うばかりです。
追記
とある方のブログから。
ゲリラ豪雨という日本語が定着していますが、
鬼雨という日本語があるようです。
こっちの方が響きが美しいと思いませんか。
雨を表す日本語はたくさんあります。
分かりやすさや便利さよりも大事にするべきものって他にもあると私は思います。