今年はたくさんの命を見送りました。
幸いにも見送るにあたって十分な時間があったので、
見送った後に悔いることのないような時間の使い方ができたと思ってます。
でもやはり命を失うことは悲しいです。
ものを作ることはあくまで内包していたものを
外へと吐き出す作業に過ぎず、
ものを作ることの一歩目ははまず内に向けて意識を向けることだと思っています。
なぜ命を失うことは悲しいのか。
前述の通り、悔いることのない日々を過ごすことが大前提ですが、
それでもやはり今こうして悲しいと感じているにはきっと理由があるはず。
少し時間があったので半身浴をしながら意識を集中してみました。
以前から申している通り、過去に遡ることはできません。
過ぎ去った日々がどんなに愛おしくても。
また逝った者は帰ってはきません。
そのことは理解できているし、そこに対する未練はありません。
ではなぜだろう。
私はそれは、同じ時間と空間の中で情報を共有した者を失うことによって、
その情報が自分の中にのみにしか残らなくなってしまった虚無感が
悲しさの原因ではないかと思います。
親しかった人との思い出や日常、習慣など
当事者同士でしか共有していなかったことが、
一方が失われることによって共有できなくなること。
二人の暗黙の了解や人には言えないようなくだらない思い出など。
決して他者と置換できない事柄だからこそ、失って初めて悲しさが生じるのではないでしょうか。
そしてふと思い出したこと。
祖父の四十九日法要の時、方丈さんが言っておられました。
「お亡くなりになられた方の思い出などをみなさんでたくさんお話しください」
あ、なるほど。そういうことだったのか。